リリカルなのは SS

                     家庭教師は執務官
 八神はやては今まで足の障害のため、学校に通うことが無かった。しかし、闇の書事件の後、足の障害も回復に向かうようになり、この春晴れて私立聖祥大学付属小学校の四年生として学校に通うようになった。
 多少の不安はあったが、学園生活に対する期待のほうがはるかに大きかった。夢にまで見た学園生活だ。その上、学校にはすでに心強い友人達が待ってくれているのだ。心躍らせないわけがなかった。
 そうして、始まった学園生活をはやては堪能していた。慣れない環境に戸惑うことも多かったが、そのたびに友人達が助けてくれた。たくさんの同年代の子供たちと一緒の教室にいるのは新鮮だった。
 だが、そんな学園生活を脅かす影があった。学校で常にははやてに纏わりつく。それには一人で立ち向かわなくてはならない。友人達の力を借りることも出来るが、最終的には一人で戦わなくてはならないのだ。
 例えるなら、ボクシングにおけるセコンドと選手だ。お互い支えあってきた仲間でも試合が始まれば友人達というセコンドは選手である自分を見守ることしかできない。最も、この例えは自分一人から見れば的を射ているかもしれないが、全体として見ると穴だらけである。なぜなら、セコンド役の友人達も試合を行う選手なのだから。
 そのように、はやてだけでなく友人達、それ以外の生徒達を常に脅かすその影の名は─────────


「も、もうだめや〜」
「はやて。しっかり」

 ──────勉強といった。





 学校に行ったことがなく、生活に必要な知識だけが必要だったはやてにとって学校の勉強は彼女の脳の許容容量をパンクさせた。なにせ、それまで同年代の子達がやってきた下地がないのだ。それがないまま、一遍に各教科の知識を与えられるのだ。対処し切れなかった。
 それでもその場しのぎでなんとかしてきたはやてに衝撃の一報があっさりと伝えられた。朝のホームルームで来週にテストがある事が伝えられたのだ。
 テストはそれまでの勉強の成果を発揮する場である。それを発揮するのは学んで定着した知識だ。はやてにはそれが絶対的に足りていなかった。
 聖祥学園はそれなりの学力を要求する学校である。また、学校にいけるよう取り計らってくれたレティ提督を初めとする恩人達の手前、散々な結果を出すわけにはいかなかった。
 そういうわけで、そのテストの対策をするべく本日はハラオウン家でフェイトと勉強会をしているのだった。





「でも、そうだね。そろそろ休憩にしようか?」
「た、助かるわ」

 頭から煙を出しそうなはやてを見かねてフェイトが休憩を提案する。実際すでに三時間ほど続けっぱなしである。休憩には頃合だった。はやては安堵しながら頷いた。
 フェイトとはやてが一緒に二人で勉強会を開いたのには訳があった。友人達で一番勉強が出来るのはアリサだ。ならば、彼女に習うのが手っ取り早いように思えるが、天は二物を与えなかったのか。勉強に関して、アリサは人に教えることは苦手だった。
 そうした中でこの勉強会を持ちかけたのはフェイトだ。それははやてが自分に無いものを持っていたからだった。
 異世界人であるフェイトは国語が苦手だった。漢字の読み書きは少しは出来るようになったが文章の意味を読み取ったり、文法を解いたりするのはまだまだだった。
 対してはやては本好きの少女であり、そのため文章を読み取ることが得意で、国語だけがはやてが対応できる教科だった。その代わり他の教科、特に複雑な公式が飛び交う数学は不得意だった。魔法の制御や構築で理数系の能力も問われる魔導師としては由々しき問題だが、今回の件には関係の無い話である。そして先輩魔導師であるフェイトは理数系が得意だった。
 お互いに、足りないものを補おう。そう言ってはやてに勉強会を持ちかけてきたフェイトは救世主のように見えた。あの時、交わした熱い握手はいつまでも忘れないだろう。
 なのはとすずかは友人ではあるが学業では競うべきライバルだ。敵に弱みは見せられないところだ。もっとも、フェイトとはやての成績について、なのはたちはよく知っているので弱みもなにもないわけだが。そんなわけで二人にはこの勉強会は秘密だった。





 フェイトはキッチンでお茶の用意をし、はやてはリビングでお茶を待った。手持ち無沙汰ではあるが、まだ足が完治しておらず、手伝えないのでしょうがない。読みかけの文庫本でも読もうかと、本を手に取ったところで玄関のドアが開いた音が聞こえた。
 覗く様に玄関に繋がる通路に視線をやる。少しして一人の少年が姿を現した。クロノだった。目があってお互い手を上げる。

「クロノ、おかえり」
「ただいま。今戻ったよ」
「クロノ君、おかえりや。お邪魔しとるよ」
「やあ、はやて」

 クロノの右手には白い箱があった。見覚えのあるロゴがついた箱だ。

「クロノ、それ?」
「さっきまで翠屋にいてね。君達が勉強会をすると聞いていたから、お土産というわけだ」
「クロノ君、ナイスや」

 クロノは箱をフェイトに渡す。丁度、お茶にしようとしていたところだったのでいいタイミングだった。

「いま、クロノの分も用意するね」
「いや、ありがたいが僕の分はあとでいいよ。これから少しトレーニングしてくる」
「トレーニング?腕立てでもするんか?」
「いや、魔法訓練だ」

 はやてが首を傾げる。訓練室もないこのマンションでどんな魔法訓練をしようというのか。

「どんな訓練なん?なのはちゃんみたいな誘導操作とか?」
「そんなたいした訓練じゃないさ。結界も必要ないしな」

 それは、どんな訓練なのか。魔法に学ぶようになってまだ日の浅いはやては好奇心を出して聞いてみた。

「なあ、それ見学してもいい?」
「かまわないが……見ても勉強になるような訓練じゃないぞ」
「ええよ、別に。フェイトちゃん、ええかな」
「うん」

 フェイトが箱を冷蔵庫に仕舞う。見学が終わるまでお預けと言うことだ。

「それでクロノ君、どんな訓練をするん?」

 クロノはあっさりと、意外な言葉をいった。

「飛行魔法だ」





 マンションの屋上。そこに三人の姿があった。その内、クロノのみがバリアジャケットを着て訓練を行い、フェイトとはやてがそれを眺めていた。
 クロノは地面から一メートルほどの浮かんだところで静止していた。目を瞑り、意識を集中させている。なんの動作もしない、通常の飛行魔法である。
 ただ一つ、クロノが逆さになったままで浮遊していることを除いては。

「なあ、これどんな訓練なん?」

 ただ逆さになって飛んでいるだけである。これがサーカスやイリュージョンなら盛り上がるところかもしれないが、あいにくタネも仕掛けもなく、魔法で飛んでいるとわかっているのだ。ひたすら地味だった。

「………、見ての通りだが」

 目を開けたクロノは簡潔に言った。その言葉にはやての疑問は尽きない。

「飛行魔法って、初級の最後くらいの魔法やろ?なんでクロノが訓練する必要があるの?」

 はやての言葉に、クロノは小さく笑った。問題が解けず、頭を悩ませている子供に向けるような笑いだった。

「なんなら、やってみるか?」
「む、ええよ」

 クロノの口調には、からかうようなものがあった。はやては車椅子から立ちあがって、バリアジャケットを精製し、飛行魔法を唱える。

「やる時はすこし高度を取ってからやるんだ。じゃないと受け止められない」
「……それって私が失敗するって言っとる?」
「はやて、言うこと聞いたほうがいいよ」

 苦笑いするフェイトにまで言われ、渋々高度を取る。クロノの身長くらいまで上がったところで静止する。

(それじゃ、逆さに………あれ?)

 飛行魔法は魔力で足元に力場を作る行為だ。その力場の形を変えることで推進したり停止したりするわけである。
 いざ、逆さになろうとしたところではやてはその力場をどう設定すればいいのか迷った。

(まあ、ええわ。とりあえず逆さになってみよ)

 はやては自ら落とし穴に落ちるように力場から身を投げ出す。
 瞬間、はやては落下した。

「へ?」

 慌てて静止しようとするが、何故か力場の構築がうまくいかなかった。スピードは落ちる事無く、地面に迫る。
 このままでは頭から地面に落ちる。僅かな間に顔を青くするはやて。だが、次の瞬間、いきなり、落下が停止する。
 何が起こったか、わからずはやては回りを見るために首を振る。

「言ったとおりになっただろう?」

 見上げたすぐ近くに自分を抱きとめ、笑うクロノの顔があった。





「で、あれってどういうことなんや?」

 車椅子に座ったはやてがクロノに尋ねる。あれとは無論、逆さの飛行魔法についてだ。

「そうだな……。まずどう説明したものか」

 顎に手を当てて考えるクロノは、車椅子のポケットに仕舞われた文庫本を見つけた。

「丁度いいな。これを使って説明しよう」

 クロノが本を取る。本のタイトルは『罪と罰』。ドストエフスキーではない。作者はケイン・ディルフォードとなっている。
 クロノは適当なページを開くと、はやてに突きつけるように見せる。

「はやて、少し読んでくれないか?」

 これが飛行魔法となんの関係があるのか?疑問に思いつつ、はやては音読を始める。読み終えている部分だったので内容も覚えていた。

「え〜と、
『「その覚悟を見守って、守る為には、確かに命を捨てる覚悟が必要なのかもしれません」
彼の言葉が飲み込めなかった。意味が分からなかった。
命を捨てて、私を、守る?
茫然とするはやてに、少年――クロノは自分に言い聞かせるように続けた。
「覚悟は必要なんだ。彼女を見守り、支え、守る為には。シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラのように、そうする事が必要なんだ――!」
頬を涙が落ちて行った』」

 ここは特に感動したところだ。こんな風に守ってもらいたいなぁと、はやては思った。

「読めたか」
「今、読んだやん。それでクロノ君、これがさっきのとどういう……」
「じゃあ、こうすればどうだ」

 クロノが開いていたページを逆さまにする。当然文字も行も正反対になる。

「え、え〜と、その覚悟を〜……って読みづらいに決まっとるやろ!」
「これが答えだ」

 突っ込みはやてをさらりと流し、クロノは説明を続けた。

「通常、飛行魔法は足元に力場を作ってその上に乗るわけだが、それは一枚の板の上に乗るようなものだ。さて、はやて。逆さになった時、足元はどこにある?」
「あ」

 言われて気づく。いくら力場を作ろうともその下にいたのでは意味が無い。

「逆さのまま、静止しようというならそれにあった術式の構築に変えなくてはならない。一番単純なのは通常の構築を真逆にすることなんだが……」

 クロノは逆さまにしたままの本をヒラヒラと振った。

「ご覧の通りだ。例え読み慣れている文字でも逆さまになれば途端に、見慣れたものでなくなる。そして君はその構築が出来なくて落ちた、というわけだ」
「……参りました」

 はやてが降参するように両手を挙げる。その様にフェイトが慰めるように言う。

「大丈夫だよ、はやて。私も失敗したから」
「フェイトちゃんも?」
「うん、止まれたのは少しだけですぐに落ちちゃった」

 先ほどのフェイトの苦笑の理由はこれだった。おそらく彼女もはやてと同じように失敗したのだろう。経験者ゆえの笑いだった。

「基本と言えど、突き詰めれば奥が深くなる。そういうことだ」

 教鞭をとる教師のように言うクロノに二人が拍手を送る。拍手の手を止めたはやてが思い出したように呟いた。

「でも、逆さのまま止まる人ってあんまおらんよね」
「それはそうだ。べつに習得する必要性がある技術ではないしな」
「へ?」

 はやての疑問にクロノが答える。あっさりとした言葉に呆けた。

「考えてもみろ。例えば、なのはのような砲撃魔導師が逆さのまま、砲撃魔法を放っても何の意味も無いだろう」
「それはそうやけど………。ならなんでクロノ君はやっとるん?」

必要性のない技術。それをあえて学ぶクロノの考えがわからなかった。

「さっき君も言ったがこの技術を覚えようとするものはそんなにいない。逆に言えば、この技術を覚えれば多くの者がやらないことが出来るようになる。僅かにでも戦術を増やそうとする苦肉の策さ」
「はぁ〜………」

 はやては感心する。クロノは遠近攻防全てにおいて偏ることのない魔法を習得しており、その手数と戦術は誰よりも多い。その彼がさらに出来る事を増やそうと努力しているのだ。見習うべき心がけだろう。

「さて、君達はそろそろお茶にしたほうがいいだろうな。早くしないと勉強の時間が削れるぞ」

 クロノの言葉に二人は当初の目的を思い出す。慌てて、戻る二人を見送るとクロノは訓練を再開した。
 彼が訓練を終えて戻ってきたのは、フェイトとはやてのお茶が終わったころだった。




「う〜………」

 はやてが呻きながらペンを進める。
 いまフェイトとはやてが取り掛かっているのは英語だ。これに関してはふたりともどっこいどっこいなので二人して教科書と辞書と睨めっこしながら取り掛かる。
 その様子を、クロノはコーヒーを飲みながら眺めた。お茶の流れから勉強場所はフェイトの部屋からリビングに変わっていた。ああでもないこうでもないと百面相するはやての様子はなかなか愉快だった。
 コーヒーを飲み終えると、進み具合はどんなものかと覗き込む。フェイトは単語の書き取り、はやては日本文の英訳をしていた。
 はやてのノートを見る。消し直しがたくさん見られるノートに英文を書いていく。それを見て、文の間違いに気が付いたクロノが口を挟んだ。

「はやて。単語の綴りが間違っているぞ」
「へ?」

 はやてが顔を上げる。クロノが腰を曲げて間違えている部分を指摘した。

「ここだ。この部分はaじゃなくてoだ。元の単語がaだから間違えたのだろう」
「あ、ほんまや」

 言われてみると確かにそうだった。しかし、他の英文が並ぶ中でよく気がついたものだ。ふと思って聞いてみた。

「クロノ君って英語できるんか?」
「一応は」
「一応、って……」

 ミッドチルダの人間であるクロノが何故英語がわかるのか?クロノと英語の間に何があったのだろう。

「恩師に英国出身の人がいてね。任務で英国に行った際教えてもらった」
「それってこっちの世界出身の人ってこと?」
「ああ。もう引退したが優秀な人だった」

 なのはや自分以外にもそういう人がいるのかと気になったが、それよりも重大なことに気が付いた。
 フェイトを見る。何も言わなくてもわかると頷く。二人で手を伸ばしてクロノを座らせた。

「な、なんだ?」

 戸惑うクロノに二人は異口同音で答えた。

「「英語、教えて」」

 その後、クロノは二人の勉強に二時間付き合わされた。





 勉強会を終わらせたはやてはクロノに車椅子を押してもらいながら帰宅の途にあった。一人でも帰れるというはやての言葉を押し退けてのことだ。
 その途中、クロノとの会話に先ほどの勉強会のことを出した。

「でもクロノ君、なんでも出来るんやなぁ。」

 クロノの教え方は上手だった。人にあれこれ指示を出したり指導したりする立場だからかもしれない。

「そうでもない。出来るように努力してきただけだ。出来ないことはいろいろある」

 さも当然のように言う。謙虚ではなく、本当にそう思っているという確かな響きがあった。

「あ〜、クロノ君みたいな人が教えてくれれば成績鰻登りなんやけどなぁ……」

 冗談交じりにそう呟く。その言葉にクロノは少し思案してこう言った。

「なんなら艦長に相談してみるが」
「へ?」

 思っても見なかった言葉にはやてが振り返る。クロノは歩みを止めずに言葉を続ける。

「だから君の勉強を見られるよう、艦長に時間が貰えないか聞いてみようと言っている。もっとも、僕も仕事があるから提案が通ってもそれほど定期的に行くことは出来無そうだが」
「いや、それはかめへんけど………ええの?」
「君の成績でレティ提督の頭を悩ませたくないからな。勉強のために任務に出られないなんて事になったら目も当てられない」
「う」

 思わず、固まる。それははやて自身考えていたことだ。そして今のところ、そうなってしまう可能性がないとは言い切れなかった。

「ほんなら、ええかな」
「ああ。艦長と提督には僕から話を通しておく」

 それから二人は八神家に着くまで、勉強スケジュールについて話し合った。





 リンディとレティとの話し合いの結果、クロノの申し出はあっさりと通った。特にはやての学校生活を心配していたレティには渡りに船、という話で強く賛同してくれたおかげもある。
 そんなわけで、勉強会から四日後。
 はやてが学校から戻ってきてそう経たないうちにチャイムがなった。

「来たみたいやね」

 既に制服から私服に着替えたはやてが客を出迎えようと玄関に向かう。それをリビングにいたヴィータはつまらなそうに見た。
 玄関を開けると、クロノの姿があった。家庭教師の到着である。

「いらっしゃい、クロノ君」
「お邪魔するよ」

 クロノを家に上げるとリビングに通した。リビングには寝そべってテレビを見ているヴィータがいたので声をかける。

「やあ、ヴィータ」
「おー………」

 見向きもしないで返事をする。今日、クロノが家に来ると言ったときからこの調子だ。
ヴィータにとって八神家は聖域だ。長い旅の果てに辿り着いたやすらぎの場所。たとえ、顔見知りでも易々と上がりこんで欲しくないようだ。特に、クロノは異性である男であり、それだけである種の異分子だ。
 もう少し、人に愛想良くしてくれんかなぁ、と保護者のような気持ちを抱いたはやてがクロノの手にあるものに気が付いた。

「あれ?クロノくん、それ?」
「ああ。翠屋のデザートだ。来る前に買ってきた。芸がなくて申し訳ない」

 ピクッ、とウサギが耳を立てるように反応するヴィータ。

「ええよ。翠屋のデザート美味しいから。ありがとな」
「ヴィータ。君の分もあるから食べるといい」
「マジかっ!?」

 ガバッ!と起き上がって目を輝かせるヴィータ。買ってきたデザートは千円以上のものはないから聖域への交通料は千円以下らしい。

「ほら、ヴィータ。ちゃんとお礼言わなあかんよ」
「うん、ありがとなク……クロ……ク……クロスケッ!!」
「その呼び方はやめてくれ………」

 身震いするクロノ。はやては不思議そうに首をかしげた。
 なお、この時からヴィータにとってクロノは『家に来るとデザート持って来てくれる奴』と認識されるようになる。あんまり喜べない認識だった。



「それじゃ、一旦休憩にしよう」
「ふい〜………」

 気の抜けた息を吐く。勉強を開始して二時間が経過していた。進み具合は順調だった。
 フェイトとやった時もはかどったが、クロノに教えられた方がさらにはかどった。教え方もあるだろうが、何より共に勉強していたため教えるのが片手間になってしまうフェイトと違ってマンツーマンである。効率は上がった。

「しかし、君は飲み込みが早いな」
「そう?自分ではわからんけど」
「ああ。覚えの悪い僕が言うんだ。間違いない」
「へ?」

 クロノの言葉に口を開ける。なんだかこの間からこんな反応ばかりさせられる。ここまでで何回「へ?」と言わされただろうか。

「物覚えが悪いって誰が?」
「僕がだ」
「何が悪いって?」
「物覚えが」
「悪いって何?」
「……そんなにわかりづらい言い方したか?僕は」
「ごめん、ちょっと逃避してもうた」

 そうは言うが、真実にしては信じられず、冗談にしては笑えなかった。

「本当だぞ。この間、英語を習ったと言ったが一朝一夕で身につくものではない。実際の任務の時はほとんど片言でしか喋れなかったし、辞書がなければ書くことも出来なかった」
「で、でもそれって勉強の話だけやよね?」
「そんな事は無いぞ」

 断言される。それでもはやては半信半疑だ。

「参考までに何かエピソードを」
「………言わなきゃだめか?」
「言わなきゃ信じへん」
「信じてもらう必要も無いのだが………」

 クロノは大きくため息をついた。物凄く遠い目をするとぽつぽつと語りだした。

「そうだな。この間、飛行魔法の事があったからその話をしよう。僕が魔法を習い始めたのは五歳の時だ。その時の僕は出力制御も下手で、三ヶ月が経っても飛行魔法を使うことが出来なかった」
「……嘘やろ?」
「本当だ。続けるぞ。足元に自分の身体を支えられる力場も作れず、力加減を間違えて、浮くだけのところを飛び跳ねて怪我をした事もあった」

 クロノの声は呆れている。それは過去の自分に対する呆れだ。その姿に偽りを見出すことははやてには出来なかった。

「それで見るに見かねた師匠が荒療治に出た訳なんだが、何をしたと思う?」
「な、なにしたん?」

 なんだか暗い笑みを浮かべながら語るクロノにちょっと引くはやて。クロノは俯いて目元を隠しながら言った。

「……吊るされた」
「へ?」
「吊るされた。ロープでぷらーんと、サルの知能を確かめるときのバナナのように」

 台と棒を使ってバナナが取れるでしょうか?というアレか?

「縄が痛かったら、空中で静止してみろとそのまま放置された。死ぬ気でやってみろと言われたが、忘れられて一日放置されっぱなしになった時は本当に死ぬかと思った」

 フフフフ、と邪悪とも取れる笑みで笑う。今更だがなんであんなのが僕の師匠だったのでしょうか?

「さて、はやて。信じる気にはなったか?」
「ごめん、クロノ君。疑ったりして」
「信じてくれればいいさ」

 トラウマになりかねない様な過去を語るその姿を誰が疑うことが出来ようか。

「まあ、なんだ。そんな経験だが一つだけわかった事がある。僕には天性の閃きというものは全く無い。土壇場で出来るようになる程器用じゃないということだ」
「………」
「だから出来るようになるまで何度でもやった。頭からも落ちた。足の骨にヒビが入ったこともあった。肩を脱臼したこともあった。それでも続けた」

 それは文字通り、身体に覚えこませる行為だった。初級の魔法である飛行魔法を身に刻ませて覚えたのだ。

「それが今は、逆さで静止なんやね」
「それも、あの時覚えなかったら出来なかったことだ」

 コーヒーを口に運ぶ。思い出話のせいかなんだか苦く感じた。

「そういうわけだ。繰り返し教え込まなくても、間違いを理解できて正解に導ける君は間違いなく飲み込みが早い。保障する」
「うん……信じる」
「さて、飲み終わったら続きをやろう。出来るまで繰り返し教えるのが僕のやり方だが、頑張るように」
「はい、頑張りますセンセ!」

 この後の勉強は休憩前よりずっと身を入れて取り掛かることが出来た。





 クロノが通信室で壁に寄りかかりながら腕を組んで目を瞑っていた。一見、落ち着いているように見えるが、落ち着こうとしている動作なのだと付き合いの長いエイミィは正確に見抜いていた。

「クロノ君、落ち着きなってば」
「落ち着いてる」
「ま、そういうことにしておいて上げるよ」

 クロノの八神家訪問から十日、テストが終わって七日が経った。
 クロノが通信室で待機しているのははやてからの連絡を待っているからだ。本日はテストの返却日。すなわち、結果発表である。

「でも、執務官試験の結果待ちの時もそんな感じだったよねぇ〜」
「連絡はまだか」
「見ればわかるでしょ。そんなに結果が気になる?」
「……わざわざ艦長に時間を作ってもらってまで指導したんだ。これで結果が悪かったら艦長にもレティ提督にも申し訳が立たない」
「なんだか、はやてのお兄さんみたいに見えてきたよクロノ君。フェイトちゃんが嫉妬するよ?」
「僕ははやての兄になった覚えは無いし、何故フェイトの名が出てくる」
「それは自分で考えて」

 その時、通信室にコール音が響いた。クロノがモニターに近づき、エイミィが通信を繋げた。
 モニターには制服姿のはやての姿があった。

「こちら、クロノだ。はやて、結果はどうだった」
『………クロノ君』

 はやては沈んだ口調だった。嫌な予感が走る。

「どうした、はやて」
『クロノ君、私………』

 はやてが俯く。その姿に体温が下がったように感じた。そんなに結果が悪かったのか。だとすれば、自分の指導が悪かったせいだ。もっと考えてはやてに合わせる様に指導するべきだったか。

「……はやて。結果は」

 唾を飲み込む。ただならぬ緊張の中、クロノは宣告を待つ。

『…………………全部、平均点突破やー!!!!』

 顔を上げたはやては、満面の笑顔で結果を伝えた。

「へ?」

 今、この子はなんて言ってくれやがった?

『それも全部平均点十点オーバーや!九十点台もあるで!!』
「ま、待て!結果が悪かったんじゃないのか!?」

 はしゃいだ様子のはやてにクロノが確認を取る。

『え〜、私そんなこと一言も言っとらんよ?』

 その言葉に、がっくりとうな垂れるクロノ。

「冗談にしては性質が悪すぎるぞ。寿命が縮まった……」
『あはは、ごめんごめん』

 さすがに悪かったと頭を描きながらはやてが謝る。

「まあ、ともかく。いい結果でよかった。おめでとう」
『うん、クロノ君のおかげや。ありがとう』

 そこで、はやては急にもじもじした様子でこちらを窺ってきた。

『それでクロノ君、ちょっと、お願いがあるんやけど……』
「なんだ?」
『出来れば、そのこれからもたまにでいいから勉強教えてもらいたいやけど。魔法のこととか込みで………だめ?』

 上目遣い気味で尋ねる。モニター越しでも十分な破壊力があった。

「う……いや、僕の一存では決められないが。魔法訓練にしても日に合わせて訓練室の使用許可を取っておかなくてはならないし、勉強のほうも週に一回も見れないかもしれないし……」
『クロノ君以外の都合が悪いなら諦めるけど、クロノ君は教えてくれてもええってこと?』
「ま、まあ、そうだな。とにかく艦長とレティ提督に打診してみよう」
『……シャマルから演技指導してもらった甲斐があったなぁ』
「待て。今何か言わなかったか」
『なんにも〜?』

 百万ドルの笑顔で言う。あまりの悪意のなさにクロノのそれ以上追求できない。

『ほんなら、よろしくな。クロノセンセっ』

 その笑顔にクロノは諦めたように頷いた。

 なお、その夜、国語と言うハンデのためはやてより平均点の低かったフェイトは、エイミィからクロノとはやての事を聞かされると、

「お兄ちゃんの裏切り者………」

 そう言ってクロノを一撃で撃沈させた。
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