リリカルなのは SS

                       休日の一室

 落ち着け、落ち着くのだクロノ・ハラオウン。
そう自分に言い聞かせるも、ガチガチになった身体は一向にほぐれない。緊張から来る固さだ。心拍数も運動後ともまではいかないが、平時に比べればずっと高い。一見、平静を装っているが脂汗もダラダラと流れ続けている。
 どうしてこうなったのか。クロノは自問する。現状はわかるがそれに至るまでの過程が、とそういえば前にもそんな事を思った気がする。そう思ったのはここと同じ場所でだ。ただし、正確に言うなら若干場所にずれがある。もっとも、その若干のおかげで自分は今、この窮地にも似た状況に陥っているわけだが。いや窮地などと言うのは相手に失礼だが、空気に限って言えば間違いなく窮地のそれであり、同時に今まで経験してきたことの無い類のものである。この状況を例えるなら見知らぬ親戚の祝い事に呼ばれて肩身を狭くしているような気分だった。それを窮地と呼べるものかどうかはわからないが、気分だけなら正に的確だった。

「ど、どうぞ。お茶だよ……」
「あ、ああ。ありがとう」

 おずおずと差し出されたお茶を受け取る。鈍った感覚では旨いとも不味いとも感じられずただ熱さのみが伝わった。このまま一気に飲めば少しは正気に戻るかもしれない。そう思ったが心配されそうだったので実行には移さなかった。それにしてもなんだってこんなに緊張しているんだ僕は。
 クロノは気づかない。自分の目の前に座っている、お茶を差し出してくれた少女も同じように身を固くしていることに。
 現状を確認する。クロノ・ハラオウン執務官は本日は休日、目の前に座っている少女は同じ管理局に勤める高町なのは、そして今いる場所は海鳴市の高町家の『なのはの自室』である。
 その最後の項目がクロノにとって慣れ親しんだはずの高町家を異空間と化していた。







 事の発端はこうだ。クロノは休日をいつも通り、翠屋で過ごした。昼食を取りつつ、桃子から何故か翠屋の店員としての心構えを教え込まれていると、それなりに時間が経ったのでお暇しようとすると桃子から尋ねられた。

「今日、時間までどうするの?」

 本日はフェイトが高町家の夕食に『お呼ばれの日』だ。そして家人がおらず、休日が重なったクロノも呼ばれている。しかし、今は昼を過ぎたばかりであり夕食の時間にはまだ結構時間がある。その時間のことを尋ねられ、クロノは特に予定はありませんと答えた。
 すると桃子が。

「あー、それならもうウチに行ってくれないかな。今日はなのはが一人で留守番してるから相手でもしてくれない?」
「わかりました」

 そう頼まれたクロノはすぐに頷いた。どうせ向かうのだから早く行っても問題はないだろう。頼みごとをされたのならばなおさらだった。

「じゃー、よろしくねー」

 こうしてクロノは、翠屋から直行で高町家に向かった。その道中、何故次に翠屋が忙しくなりそうな日を教えられたのだろうかと考えながら高町家に辿り着く。インターフォンでなのはを呼び出すと、早い時間に現れたクロノに驚くなのはに事情を説明すると喜んで家に上げてくれた。
 家の中は静かだった。なのは以外誰もいないのだから当然なのだがそれでもそう思ったのはこの家がいつも賑やかだからだろう。招かれる度、穏やかな空気を作り出すこの家の家人に改めて感心させられる。
 そんな感慨を耽っていると、なのはがお茶の準備をするから待っててと言った。

「縁側で待っていればいいか?」

 クロノがお茶をご馳走になる時は、いつも縁側だ。当然そうなるものと思って訪ねるとなのはは少し考え込む。何故、考え込むのかクロノが疑問に思っているとなのははとんでもない事を言った。

「私の部屋で待ってて」

 この一言が、異空間の始まりだった。

「……………は?」

 理解するのに数秒かかった。
 部屋?部屋って誰の?彼女の?なのはの部屋?

「い、いや!僕はいつも通り縁側で構わないのだが!」

 何故か慌て出すクロノを不思議に思いつつ、なのはは力説する。

「駄目だよー。クロノ君、お客さんなんだからしっかりお相手しないと」
「いや!そんなに気を使わなくてもいいぞ!それに、女性の部屋に男が入り込むのはどうかと思うぞ!うん、失礼だ!」
「どうして?」

 心底、不思議そうに首をかしげてからなのはは言った。

「クロノ君は友達だもん。部屋に入っても変じゃないよ」

 その満面の笑顔に、クロノは説得する言葉を持たなかった。







 先に入ってて、という言葉に従いクロノはなのはの部屋に入った。高町家には何度も来ているが、なのはの部屋に入るのは無論初めてだった。
 何か空気が違うことを感じながらきょろきょろと部屋を見回す。部屋には少女らしくいくつかのぬいぐるみが置いてある。机には写真立てがいくつかありその中には皆で撮った写真もあった。そこでクロノはようやく自分の行動に気づく。
 他人の部屋を見回すとは失礼な事を。ブルブルと頭を振って邪念を払う。部屋に入った時から立ったままの体勢を崩して腰を下ろす。部屋を見回そうとする首を精神で固定するとなのはが来るのを静かに待つ。

「………………………………………………………………………」

 遅い。遅すぎる。だが時計を確認するとまだ部屋に入って三分も経っていない。体感的には十五分くらいは経っていると思ったのに。なんだってこんなに時間が流れるのが遅いんだ。
 前にもこんなことがあったと思ったが、思い返すとそれは執務官試験の合格発表の時だった。あの時も時間が経つのが遅く感じられてイライラと待っているところをエイミィにからかわれた。それでクロノはようやく自分が緊張状態にあることに気が付く。
 落ち着け、落ち着くのだクロノ・ハラオウン。
 目を閉じてそう言い聞かせる。今まで培われた精神を持って心を静めてからクロノは目を開いた。

「………」

 開いた目にはベッドが映っていた。無論、なのはの部屋にあるのだからなのはのベッドだ。つまり、彼女はいつもこのベッドで寝起きをしている訳だ。
 可愛らしい寝巻きを着て、髪を解き、丸まって、寝返りをうちながら、あどけない寝顔をするなのはの姿が脳裏に浮かぶ。

「────────」

 静まった心が一気に逆流した。逆さまに宙吊りのままでも頭に上ることなく問題なく巡りそうなくらい血液が加速する。というか何を想像しているんだ僕は。いつからそんな想像力豊かになったのだ。
 そんな自責にも似た念を抱いているとノックの音が響いた。ビクッ、と身を竦めるクロノ。音に遅れてドアが開き、なのはが入ってきた。

「おまたせー」

 盆に載せたお茶を床に置くとなのははクロノの前に座った。

「クロノくん?」

 なんだか様子が変だ。顔は赤いしなんだか落ち着きが無い。

「あー、いや、その、なんだ」

 口ごもるクロノは気まずげに視線を逸らす。釣られてなのはも視線を移すとそこには自分のベッドがあった。自分がいつも寝起きをしているベッドをである。

「────────」

 瞬間、無防備な寝顔を見られたかのような錯覚を覚えた。気が付けば心臓の鼓動が早くなっている。自分の鼓動の理由がわからず、心を静めることが出来ない。知らず知らずのうちに胸を手で押さえていた。

(あ、あれ?どうしたんだろ……?)

 ここまできても、なのはは『クロノが自室にいる』という状況が特殊なものだとは気づかない。ただ、心と身体のみが素直になのはに緊張を伝えていた。







 そして現在に至る。
 部屋の中の空気は非常に気まずい。しかし、そこにいなくてはならないこの状況は飲まなくてはならない苦い薬のようだ。
 なんとかしなくてはならないとクロノは思う。そもそも、なのはと二人きりになるのはそんなに珍しいことではない。ただ、いつもと違うのは場所がなのはの部屋と言うことだけだ。それだけが違うだけで何故かこんなにも緊張している。女性の部屋に入るのは別に初めてというわけでないのに。
 そこでクロノは気づく。そうだ、別に女性の部屋に入るのは初めてではない。フェイトやはやて、エイミィといった女の子の部屋で二人きりになると言うのはよくある事である。その時はこんな空気にはなることはなく、普段どおりだった。ならば、その時過ごしたようにすればいつも通りになるのではないか。培われた経験の引き出しこそ己の武器だ。それをこの場でも発揮すればいい。
 さあ、思い出せクロノ・ハラオウン。お前は一体彼女達の部屋で何をしていた!?




 A 仕事の話と勉強



「……………………」

 己の経験は役には立たなかった。わざわざ休日にまで引っ張り出す話ではない。そこで自分は『何の用もなく』彼女達の部屋に入ったことが無いことに気が付いた。世間話なら、別に部屋でも無くても出来るからわざわざ上がりこむと言う思考はクロノにはなかったのだ。仕事や勉強の話の合間にそれ以外の話もするが、まずは用事が無ければ部屋に入ろうとは思わなかった。
 己の引き出しが空同然だったことにクロノが愕然としている一方、なのはもこの空気を何とかしようと模索していた。
 別にクロノと二人きりになるのは別に珍しいことではない。だと言うのに何故自分の部屋に彼がいるというだけでこんな空気になって体が固くなっているのか。
 それが緊張のためと気づかない鈍感な彼女だったがこの部屋に男の子を入れたことがほとんどないことには気が付いた。クロノの他にはユーノくらいだ。最も、人間形態ではなくフェレットの姿ではあるが。
 しかし、なのははユーノという前例がある事に思い至る。同じ男の子の『友達』なのだ。なら、その時と同じように接すればいい。そう思ってユーノと過ごした日々を思い返す。ちなみにその姿は全てフェレット形態での話である。
 ユーノ君とは起きたらおはようをして、魔法の訓練をして、学校から帰ってきたら魔法の訓練の続きやアリサちゃんやすずかちゃんと撫でたりして可愛がって、夜には一緒にお風呂入ったり、一緒に寝たりした。時々寝ぼけて食べようとしちゃったこともあったなぁ。
 それをクロノに置き換える。
 クロノ君と起きたらおはようをして、魔法の訓練をして、学校から帰ってきたら魔法の訓練の続きやアリサちゃんやすずかちゃんと撫でたりして可愛がって、夜には一緒にお風呂入ったり、一緒に寝たり──────────。

「────────────」

 とんでもない想像をしかけて、脳がオーバーヒート。ブレイカーが落ちるように浮かび上がった光景がキャンセルさせる。無論、顔は真っ赤だ。
 駄目だ。ユーノは危険だ。
 そう思って、なのはは男の子の友達ではなくていいから、普段友達とどんな会話をしているのかと考える。そこでその相手に思い浮かんだのはフェイトだった。
 そうだ、フェイトだ。自分ともクロノとも近い人物であり、これ以上ない共通の話題だ。さすが、親友。いなくても自分を助けてくれる。

「フェ、フェイトちゃんは今日どうしてるのかな?」

 突然、話しかけてきたなのはにクロノは驚くが、彼自身何かアクションを起こしたがっていた。この雰囲気をどうにかしたいのは彼も同じであり、向こうからアクションを起こしてくれたのだからそれに乗らない手は無かった。いつもと比べればはるかにぎこちなかったが返答する。

「あ、ああ。今日は本局に行っている。ただ、そんなに大した用事じゃないから長引きはしないし夕食には必ず間に合うだろう」
「そうなんだ。フェイトちゃん、用事があるとは言ってたけど、どんな用事かまでは私聞かなかったから気になっちゃって」
「フェイトはよくこの家に遊びに来ているが、やっぱりこの部屋で話したりしているのか?」
「うん、おとーさんとかおかーさんと話したりすることもあるけど、大抵はこの部屋で遊んでるよ」
「どんなことをしてるんだ?」
「普段と変わらないよ。学校でお話してることと同じかな」

 会話が続く。なんだ、こんなにも普通に話せるじゃないか。何を固くなっていたのだか。そう、二人は同じことを思った。

「学校で話をしている事が僕にはなんなのかわからないのだが、何を話しているんだ?勉強か?」
「それもあるけど色々だよ。管理局のお仕事の話もしてるし、お休みにどこか遊びにいこうかとか、会ってない時にこんな事があったよー、とか」
「学校で管理局の話をするのはどうかと思うが……。最近は何が話題になったんだ?」
「んーと、アリサちゃんの家の犬がまた増えたとか、すずかちゃんのバイオリンの演奏会のお話とか、クロノ君の事とか」
「僕の、こと?」
「あ」

 再びの沈黙。空気はさきほどより重苦しく耐え難い物になっていた。
 なんだ?一体僕を話題に何を話しているんだ?そもそも、何故に友人との会話に僕のことを話題に出しているんだ?フェイトとはやてはともかく、他の友人とはそんなに接点は無いぞ僕は。
 聞きたいが聞き出せないし、聞かないほうが身のためかもしれない。そう思ってクロノが口をもごもごさせていると突如なのはが言い出した。

「お、お茶のお変わり入れてくるね!」

 まだ中身はお互いに半分以上残っているが、この空気のままでいるのは耐えられなかったのでクロノはなにも言わず頷いた。
 が、動揺している上に焦ったのが不味かった。勢いよく立ち上がろうとしたなのはは緊張で固くなった自分の足を縺れさせて自分の足に引っ掛けるというある意味器用な事をして前に転ぶ。

「にゃああ!?」

 慌てて、手を突こうとする。すると予想していた固い床の感触ではなく柔らかい感触が手に伝わった。どことなく温かい。不思議に思って目を開くと、とんでもなく近いところにクロノの顔があった。
 クロノは瞬きもせずに固まっていた。よほど、驚いたのか脳がフリーズしたかのように全く動けない。ただただ、眼前にあるなのはの顔を見入る。
 大きめな瞳。戦いの時には常に強い意志を込めた瞳が自分を映し出している。まだ色気とは無縁の年頃だと言うのに赤く上気した頬からはどことなく女の艶かしさを漂わせていた。鼻をくすぐる匂いはどこかで感じたことがある気がする。それは部屋の空気を濃くしたよう匂いだった。それでようやくこの部屋の空気が何か違う気がした理由に思い至る。なのはの部屋の匂いだったのだ。それは同時になのはの匂いでもあった。そんなことを他人事のようにクロノは考えていた。
 なのはもクロノに身体を突き出したような姿勢でクロノと同じように固まっていた。眼前のクロノの顔はいつか誰かが言ったが確かに兄に似ている顔立ちだと思う。でも違う。こうして間近で見てその顔を重ね合わせればその違いがよくわかった。戦いの時は鋭い目をしているが、普段の彼の目はどこか丸みがあった。黒い髪も兄と比べると少し艶がある気がする。顔立ちもどこか柔らかい。その顔が笑ったときの優しさをなのははよく知っていた。

「─────────」
「─────────」

 そのままでいる事、数秒。ガチャリと部屋のドアが開いた。ノックはされていたが、固まった二人の耳には届いていなかった。

「なのはー。玄関にクロノ君の靴があったけど来て…る……」

 入ってきたのは美由希だった。彼女の目に入ったのは膝を突き、身体を前に突き出した体勢で客人である少年の顔に顔を近づけている妹の姿だった。

「「!!」」

 入ってきた美由希とそちらに顔を向けた三人の視線が交錯する。

「あ、あははー。お邪魔だったみたいだねー…………」

 バタンとドアが閉まる。それからドア越しに「妹に先を越されたー!!」と言う叫び声が響いてきた。その声に二人は弾かれたように立ち上がった。

「ま、待ってください美由希さん!!誤解です!!!」
「お、おねーちゃん、待ってー!!!」

 そうして二人はこれ以上ないくらい連携し、迅速に美由希を捕まえるのだった。






「それで私、慌てちゃってー。びっくりしたなぁ」

 あははー、と苦笑しながら美由希が言う。でもお願いですからそんな話を家族全員が揃っている前で話さないで下さい美由希さん。
 美由希の捕獲から数時間。予定通り行われた夕食会で美由希が全員が揃っている前で『なのは、クロノ君押し倒し事件(命名者・美由希)』の真相を話していた。
桃子さん、今度の夕食会はお赤飯にしようかしらってなんでですか。士郎さん、今度一緒に飲もうかって僕は未成年です。恭也さん、なんで兄なのに嫁入りを迎えた父親のような複雑な顔をしているんですか。美由希さん、自分の想像を交えて過剰に話さないで下さい。手は握ってないし肩も抱いてませんから。というかいい加減その話題止めて下さい。フェイト、なんでそんなに不機嫌そうなんだ?正直、君が一番怖いぞ。
 救いを求めるように視線を巡らす。するとなのはと目が合った。お互い慌てて顔を逸らす。クロノが逸らした視線の先には物凄く微笑ましそうな桃子の顔があった。なんなんですかその顔は。
 結局、クロノとなのはは微妙な空気のままで夕食会を終えることになった。しかし、去り際の二人の様子は初デートの別れ際のようだったと姉は語る。







 その日の夜。
 既に就寝時間を迎えベッドに潜り込んだなのはだったが、目が冴えて眠れなかった。ぼんやりと考えるのは今日この部屋に初めて入ったクロノの事だ。

「…………」

 顔を横に向ける。暗闇に慣れた視線の先はクロノが座っていたところに向けられている。すぐにクロノに倒れこんでしまったあの出来事が頭に浮かび上がる。なのはは赤くなった頬を隠すように布団を口元まで引き寄せた。

(ね、眠れない………)

 結局、今日の空気を引きずったままのなのはは初めて眠れない夜を過ごしたと言う。
なお、次の『お呼ばれの日』のメニューがなんだったかは別の話である。







 おまけ

 夕食会から数日後。
 フェイトが自室にいるとドアをノックする音が響く。返事をすると、ドアが開かれてクロノの姿が現れた。

「どうしたのクロノ?」
「いや、その………と、特に用事はないのだが…………」
「?」
「その、普通に話しをしに来ただけなんだが。部屋に入って構わないだろうか?」
「え!?」
「い、嫌ならいいのだが」
「い、嫌じゃないよ。ど、どうぞ………」

 出来ないことを出来るようにする。
 クロノ・ハラオウンはどこまでも愚直だった。


inserted by FC2 system