リリカルなのは SS

                       風の系譜
                      第五話 回想

 クレアがその場所に戻ってきたのは本当に久しぶりの事だ。最後のアジトとしてこの誰もいなくなった世界にこつこつと設備を持ち込み、それが終えたのは数年前。それ以降は管理局に潜入した事もあって全く寄り付いていなかった。なので、この場所にアジトとしての意味を持たした事を無駄だと思った事もある。
 しかし、やはり備えは用意しておくものだと今は思う。想定外のときこそ、備えは必要なのだから。
 クレアは真っ先に治療魔法を展開する装置を起動させると、連れて来たクロノをその中央に寝かせた。意識を失ったクロノの身体が静かに宙に浮いた。
続けてクレアはクロノに拘束具をつける。もし、治療の最中に抵抗されたら面倒だ。それが出来るような状態ではないと思うが念のためだ。
 それから、クロノの身体状態を計測する器具をつけて、クレアは一息ついた。少しでも時間を稼ごうと足取りを追われないようにあちこち経由しての転移はさすがに疲れた。しかし、その疲れも充実感に負われた心地よいものだった。
 だって、そうだろう。もう少しで夢が叶うのだから。

「もうすぐだよ」

 そう思うと、知らず知らずに言葉を紡いでいた。けれど、呟いた言葉には万感が込められていた。自分の心をゆっくりと解き解くように言葉を続ける。

「もうすぐだよ。シュツルムヘイム──────」

 そう言ってクレアは胸元のペンダントに触れた。









 その少女にとって日常とは本を読み、知識を積み重ねる事だけだった。
 少女の家は荒廃した世界の遺跡。その中の与えられた一室で彼女は両親から本を読む事を強制された。それをつらいと思った事はない。その事に疑問を抱く前に本を読む事は当たり前の事になったし、何も無いこの世界にはそれ以外することもなかった。
 少女が読まされているのは全て魔法理論の本だ。いずれ少女に魔法を教えようと思った両親はまずしっかりとした基礎知識を身に付けさせようとした。行き過ぎとも思える少女への読書の強制はその実、少女を守ろうとする予防線だった。
 本を読み、魔法を学ぶことを苦痛に思った事はない。それが普通の事だと思ったから。ただ、何故魔法を学ぶのか。ふと疑問に思ってそれを両親に尋ねてみた。

『それはな、私達の世界に帰るためだ』

 両親は語る。自分たちはベルカという民であった事。かつて世界を二分するほどの勢力を誇っていたが今は衰退してしまった事。その時に民は散り散りになり、その文化も同じように消え去ってしまった事。僅かに残った技術は違う民に奪われた事。だから、いつか自分達の世界を取り戻したいと両親は語った。
 その時の少女にはその語られた言葉も半分も理解できなかった。言葉だけで全てが想像するには少女は幼すぎたし、想像の湧かない昔話は面白くもなかった。
 少女はただ、言われた通りに本を読み続ける。そうして色のない日々を送り続けていた。








 それが一変したのは、彼と出会った時。
 知識面では十分に基礎が行き渡ったと思った段階で両親は少女に一つの杖を少女に与えた。
 枯れた枝のような杖だ。所々、装飾はされているがとても古めかしい。先端に埋め込まれた宝石が唯一まともな装飾だった。

『なに、これ?』

 そう尋ねる少女に両親はこの杖はデバイスと呼ばれる物だと教えた。その名で言われれば少女にも覚えはあった。魔法を使うため時に術者を補助する道具。そう本に書いてあったことを思い出した。
 実際に見るのはこれが初めてだ。腫れ物を触るように恐る恐る両親からその杖を受け取る。
 触れた途端、何かが身体の中を走ったような感覚に負われる。少し、クラッと来たがそれがなんなのかと思う前に。

『お初にお目にかかる、マイスター』

 目の前の杖が喋り出した。

『─────────!?』

 驚いて、思わず杖を放り出した。放り出された杖はカラカラと床を転がってやがてピタリと止まる。それから呆れたような声を上げた。

『やれやれ。そんなに驚かなくともいいと思うが。それとも何も教えなかった親を叱るべきか?』

 ため息混じりに言うその杖に少女は口をパクパクさせながら、思い出す。
 デバイスはただの道具ではない。その中には使用者を自ら選ぶほどはっきりとした意思を持つ物も存在すると本に書かれていた。しかし、文字の上でしか知らなかった事が現実のものとして目の前にある事に少女はまだ対応しきれなかった。
 床を転がっていた杖がフワリと浮き、少女の目の前に来る。その光景に目を白黒させる、これから自らの主となる少女に杖は自らの名を言った。

『私の名はシュツルムヘイム。今後ともよろしく。マイスター、クレア・アンビション』

 そう名乗った彼をクレアは恐る恐る手に取った。

 それが初めて彼に触れたとき。

 その時から、全ては始まったのだ。








 その日から、クレアは魔法の習得を始めることとなる。
 しかし、始めてから数日は習得する以前の問題であった。突然現れた話し相手にクレアは戸惑うばかりで距離を置くばかり。今も、本を読みながらちらちらとシュツルムヘイムを窺うのみだ。

『私が怖いかな、マイスター?』
『そういうんじゃ、ないけど』

 やれやれ、と思う。長年この一族に従っているがこの子は指折りに内向的である。どうやら随分過保護に育てられたようだ。両親にも少女にもその自覚はないようだが。

『ふむ、してマイスター。今は何を読んでいるのかな?』
『………誘導操作弾の有意性とその戦術』
『なるほど。………そうだな、百聞は一見に如かずと言うしな。マイスター、見ているといい』
『え?』

 問う間もなく、シュツルムヘイムから小さな光球が生まれる。蛍のようなその光をクレアは瞬きもせずに見入った。
 光は円を描くように走る。蛇行し、うねり、廻り、上昇し、下降し、踊るように部屋中を駆け回る。
 光は首を回して追っていたクレアの目の前にやってくる。恐る恐るその光に触れようとすると、光は雪のようにはらはらと散って消滅した。
 エレナは呆然としながらシュツルムヘイムに声をかける。

『今の、何?』
『あれが、誘導操作弾と言うものだ。最も、あんな微々たる魔力で作ったものなど実戦ではなんの役にも立たないがな』
『───────すごい』
『ん?』
『すごいね、シュツルムヘイム!!』

 ぱぁと顔を輝かせてクレアは言う。それがシュツルムヘイムが初めて見たクレアの笑みだが、その興奮した様子に戸惑うシュツルムヘイムはその事に気がつかない。

『あれが、魔法なんだ!』

 夢を見るような表情。本でしか知らなかったことがあんなに凄いものだとは知らなかった。ただの文字の列が急に色を帯びて見えてきた。
 とても妙な話だが、魔法というものを認知し、それを学んでおきながら。
 それはクレアには本当に『魔法』のように見えたのだった。









 それからクレアは熱心に魔法の習得に励むようになる。今まで本を読むことに費やしていた時間の半分以上を魔法の練習に励むようになっていた。
 それとともに、シュツルムヘイムともよく話すようになった。
 彼は生きた知識だった。聞けば彼は何百年も前の大戦の頃に作られたデバイスでそれからずっと自分の一族と一緒にいたらしい。その時の事を彼は自分に話してくれた。

『二代目のマイスターはそれは勇猛な人物でな。私を片手に一人で敵陣によく突っ込んだものだ。その勇ましさといったら思い出すだけで勇気を分け与えてくれたかのようになる。ただ、余りにも短絡でな。それを見て育った三代目は逆に慎重な人物で………』

 実体験を持った彼の昔話は両親の昔話よりずっと刺激的で魅力的だった。そんな昔話を聞きながら、クレアは常に彼と一緒にいた。いつしか彼を眠る時も抱いて寝るのが当たり前になっていた。
 そうした日々のある時である。

『あっ!?』

 射撃魔法の練習をしていたときの事だ。どうもクレアは攻撃魔法の制御が苦手なようでよく制御に失敗した。その時もまた制御に失敗し、その代償が跳ね返ってきた。
 ただし、それは自分ではなくシュツルムヘイムに。

『ぐっ!?』

 クレアが制御し損ねた魔力を受けたシュツルムヘイムに皹が走る。その痛々しい亀裂にクレアは血が引いていくのを感じた。

『だ、大丈夫!?シュツルムヘイム!?』
『……問題ない。この程度なら修復可能だ』

 彼はそう言ったがその身を案じたクレアは両親に相談した。両親はシュツルムヘイムを受け取ると少女の前で分解し始めた。不安そうに見る少女に両親は大丈夫だと微笑みかけて、シュツルムヘイムの修理を始めた。
 数時間後、元の姿に戻ったシュツルムヘイムは元の調子を取り戻していた。ほっとする反面、何も出来なかった自分を不甲斐なく思った少女は泣きながら彼に謝った。

『ごめんね、ごめんね。シュツルムヘイム………』
『あの程度のことなど、問題ではない。それより君はあまり攻撃魔法に向いていないようだな。この際だから、攻撃魔法よりも補助魔法の習得に励むとしよう。その方が危険も少ない』
『うん、そうする。シュツルムヘイムが危ない目にあうのは嫌だもん』
『私は君の事を言っているのだがな………』

 また、この時クレアは一つの事を決意する。シュツルムヘイムが傷ついたというのに何も出来なかった。それは自分にデバイスの知識がなかったからだ。なら、今後は何があっても彼が治せるようにその知識を身につける事を決めた。
 シュツルムヘイムと両親が本当に驚いたのはこの時だ。まだ年端も行かない少女のクレアは瞬く間にデバイスの知識を身に付けていった。気が付けば、クレアは両親よりもずっとデバイスの事に精通するようになり、魔法の精度一つでどこに異常があるかを判別できるようになるまでに至った。

『ねぇ、シュツルムヘイム』
『なんだ、クレア』

 そうして、デバイスの知識を身につけたクレアがシュツルムヘイムに尋ねた。

『融合デバイスって知ってる?』
『無論だ』

 融合デバイス。それは魔術師の友たるデバイスと一つになる事で通常のデバイスでは考えられないほどの魔法処理能力魔力増幅を得られるデバイス。過去の事とはいえ、それを作り上げたベルカという民に少女は尊敬の念を抱く。

『それってどれくらい凄いの?シュツルムヘイムと比べてどれくらい凄い?』
『自分を貶めるわけではないが、比べ物にならんな。扱えるものこそ限られているが使うものが使えば、何者をも凌駕する。過去にはたった一人で劣勢だった戦況を覆した者もいた』
『………あと、シュツルムヘイムって普通のデバイスと比べて性能が低いって本当?私、シュツルムヘイムしか使った事がないからわからないんだ』
『そうだな。確かに低い。どうしようもないほどに見劣りする』

 シュツルムヘイムは何百年も前の骨董品だ。技術が革新したらしい別の次元世界のデバイスと比べればあらゆる点で劣る。
 唯一、優るとすれば培われた経験による柔軟な処理能力。術者が未熟でもそれをカバーできるだけの蓄積された知識が彼にはあった。故にある時期を境にクレアの一族は魔法を習得する際の入門書のように彼を使うようになった。
 けれど、それだけ。処理速度や魔力増幅といった点では現行のデバイスと比べて遥かに劣っていた。

『………なら』
『?』
『私がシュツルムヘイムを融合デバイスにしたら、そんな事は無くなるかな?』

 最近、クレアのデバイス技術に目を見張った両親はしきりに新しいデバイスを作って持つように言うようになった。クレアにしてみればとんでもない話だ。彼女にとって自分のデバイスとはシュツルムヘイム以外有り得なかった。

『──────────』

 問われたシュツルムヘイムは絶句する。その彼にクレアは問いを重ねた。

『シュツルムヘイムは私と一つになるのは嫌かな?』
『………そんな事は無い。クレアと一つになり、魔法を君と私の思うがままに振るうことが出来るのならば、それはまたとない幸福だろう』

 いつからだったか。クレアが名前で呼ぶように望むようになったのは。
 いつからだろうか。それに戸惑いを覚えることがなくなり、自然な事になったのは。

『なら、作るよ』
『………』
『私が、作るよ。シュツルムヘイムを、融合デバイスに。それで私達は一つになるの』
『夢の、ような話だな』
『うん、夢だね。私達の。けど夢で終わらせないよ。いつかきっと』

 一つになろう。

 そうして二人は互いの望みを夢とした。








 そうしてクレアに転機が訪れる。
 いつからだろうか。クレアの住む遺跡に両親以外の人間が入り込むようになった。彼らは何度もやってきて両親と部屋で遅くまで話していた。

『誰なんだろうね?』
『わからん。以前と比べれば次元間の移動は困難でなくなったから、誰が来てもおかしくは無いが。…………何か、悪い予感がする』

 その予感は的中してしまった。
 もう何度目になるかわからない来訪。ある意味、いつも通りのこと。だから気にも留めず部屋で本を読んでいるときだった。

『──────!!』

 突然、怒鳴り声が聞こえてきた。びくっと身を竦ませたクレアは何事か気になって忍び足で両親の部屋に向かった。
 その間にも怒声は止まらない。聞いた事のある声と聞いたことの無い声。応酬のような大声が響き渡ってきた。
 びくびくしながら、クレアは両親の部屋の扉に忍び寄る。ばれないように静かに半開きのドアから部屋を覗き込んだ。

『───────』

 そこには倒れ伏した両親が地を流して、男達に取り囲まれている姿だった。

『───────』

 それがなんなのか、少女には理解できない。ただ、本能的な怯えからその場から後ずさり。

 カツン、と物音を立てた。

 部屋にいた男達がドアの隙間から一斉にこちらを向いたのが見えた。

『ひっ!』

 短い悲鳴をあげてクレアはその場から駆け出した。一瞬遅れて、ドアが乱暴に開かれる音が聞こえた。

『何っ!?何なの!?何があったの!?シュツルムヘイム!?』
『わからん。ただ、先代はあの者達に殺されたようだ』
『─────────!!!』

 少女の驚きと怯えが伝わってくるが、シュツルムヘイムもそれに答える余裕は無い。
クレアの両親である先代が、他の次元世界に行き往きしていたのは知っていた。おそらく、自分達が持つ知識と技能をどこかの世界に売りにだろうとしていたのだろう。それをベルカ復興の足がかりにするために。
 だが、長く外界から隔離されていた一族は他者との交流がなかった。そのためになんらかの諍いがあってもおかしくはない。
 それが、こんな結果を生み出した。

(迂闊!それを見過ごすなど、何のための守護役か!!)

 後悔が溢れかえるが、それに構っている暇は無い。それよりも今はこの幼い主に降りかかる災いから逃がさなくてはならない。
 しかし、ここ以外の世界を知らない少女を何処に逃がすというのか。いや、とにかく命があればなんとかなる。なんとかしてみせる。

(そう、他でもない。この私が!)

 そうしている間に、クレアは遺跡の外に逃げ出した。けれど、その時には男達はクレアに追いつき、彼女を取り囲んでいた。
 クレアは反射的に魔法を発動させようとするが、まるでうまくいかない。シュツルムヘイムでもフォローできないほどに構築を乱していた。

『クレア!しっかり気を持て!』

 そうは言うがそれは酷な話だ。他人の悪意を知らずに育った少女に殺傷の意志すら篭った悪意に立ち向かえというのは、どう考えても無理だった。
 男の一人がクレアに拳を振るう。頬を殴り飛ばされたクレアはシュツルムヘイムを手放し、何をされたかわからないように放心してしまった。

『クレアッ!!』

 呼びかけてもクレアは答えない。それで興味を失ったのか、男がクレアにデバイスを向けた。

『────────────────!!』

 その光景から目を逸らす。そうして、ふっと空を見上げた。
 外は分厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。それでも、シュツルムヘイムは数百年ぶりの外界に深い感慨を覚えずにはいられなかった。

 この世界の名はシュツルムヘイム。この身はその名を与えられた誇り高き守護杖。

(そう………我が名はシュツルムヘイム)

 その名に懸けて、我が主は殺させない。
 シュツルムヘイムがクレアの前に躍り出る。何事かと男達が訝しむ間にシュツルムヘイムは周囲の風を集束させた。

『風は我が剣にして鎧。何者も阻めぬ。何者も遮れぬ』

 それが魔法の詠唱だと気付いた時には遅かった。集束した風は男達の動きを阻み、手出しをさせなかった。

『風よ。我が身にして我が友よ。我が世界を示せ』

 思い出が過ぎる。何百年と言う時を過ごしてきた。だと言うのに、それは全てただ一人の少女に埋め尽くされていた。何故かなど、考える必要も無い。これほど、想いを通い合わせた主はいなかったのだから。
 だから、この選択に迷いなどあるはずもない。

『その名は───シュツルムヘイム』

 その詠唱と共に暴風と呼ぶことすら、生易しい風が吹き荒れた。男達の身体を八つ裂きにし、その痕跡すら吹き飛ばした。

『──────────』

 そうして、主を守るために解き放った風は別れの言葉すら飲み込んだ。








『うう………』

 クレアが起き上がる。いつの間にか気を失っていた。その事に今気がついて、ぼんやりとそれを確かめるように辺りを見回して────言葉を失った。
 吹き飛んだ柱。抉り取られた地面。辺りは何かによる破壊の爪あとを深く大きく残していた。一体どんな魔獣が暴れたらこんな風になるのだろうか?そのほどの破壊がそこにはあった。
 その光景に目を見開いていたクレアだったが、ふと視線を落とすとそこには見慣れたデバイスがあった。

『シュツルムヘイム!!』

 手によって呼びかける。何があったのか、彼は身体は半分に断たれ、皹だらけになっていた。これほどの傷は初めてだ。直す事が出来るだろうか。

『シュツルムヘイム』

 少女が呼びかける。だが、シュツルムヘイムは応じない。

『シュツルムヘイム?』

 何度も何度も振って呼びかけても杖は答えてくれない。

『シュツルム、ヘイム』

 どんな事でも話しかければ答えてくれたシュツルムヘイムが答えてくれない。

『ア………………』

 だからクレアは悟る。よく知るが故に悟る。

『ア……ア………アア………アアア…………』

 シュツルムヘイムはコワれてしまったのだと。

『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』

 クレアが天を仰いで泣き叫ぶ。けれど天はクレアの叫びを覆い隠すようにどす黒い雲に覆われ、絶叫をかき消すほどの大雨を少女に降り注いだ。
 そうして、泣き叫ぶ事も出来なくなったクレアは杖を抱きながら思い出を振り返る。
初めて会った時のこと。驚いて彼を手放してしまった。
 怯える自分に魔法を見せてくれたこと。とてもとても胸が躍ったこと。
 彼を傷つけてしまったとこ。心配で、胸が凄く痛かったこと。



 夢の事。いつか、一つになろうという夢を。
 それは、もう果たされることは──────────。

『────大丈夫だよ』

 絶望の闇の中で夢という光を見つけて立ち上がる。

『私が作るから』

 そうだ。約束したんだ。私が作るって。シュツルムヘイムは私が作るって。シュツルムヘイムも望んでくれた。私も望んだ。二人で誓ったんだ。叶えると。夢を叶えると。だから、だからだから、きっといつか。

『私と一つになろう──────』

 天を見上げて、笑う。黒い雲の向こうに光を見つけたように。
 そこにクレアに向かって一人の男が歩み寄って来ていた。









『暇を貰いたい………、縁切りって事か』
「はい、そうです」

 クレアがスクリーンに映った人物に笑みを返す。返された男はその笑みを鼻を鳴らして突っぱねると低い声で言った。

『あれだけ、目をかけてやったってぇのに一方的な話だな』
「ええ、拾って頂いた以来の恩、忘れたわけではありません」

 両者の言葉は上辺のみだ。男はクレアを拾ったのは利用価値があると踏んだだけであり、クレアも男の仲間にそれを認めさせるまでに辛苦を舐めた。その間、男がクレアを助けた事は無い。自分に価値があると周りにわからせた頃に恩人顔で自分を利用し始めたような男だ。恩を感じるはずも無い。
 あの日、両親を殺したのがこの男なのだからなおさらだった。

「ですが、今私を抱えてもデメリットの方が大きいんですよ。管理局は本気で私を追い詰めようとしています。今はまだ私との繋がりが判明していないようですが、管理局が知ったらすぐに組織を潰しに掛かります。なら、ここらで私を手放すべきです」
『だとしてもだ。まだ、お前にゃ色々と利用価値があるからな、そう簡単に手放せねえよ』
「それも問題ありませんよ。渡したデータを元に開発をしていけば、私がいてもいなくてもそんなに変わりはありません。まあ、強いて言うなら市場に出すのは私の事で管理局が騒いでる間は控えた方がいいと思います。すぐに目を付けられますよ」
『………んで、組織を抜けてお前は何をする気だ?』

 その言葉にクレアは笑う。その笑みに男は形容しがたい悪寒を覚えた。それはひどく無邪気で暗い笑みだ。拾ってからクレアのこんな笑みを見た事のない男は何かまずいものに触れたような気がした。

「夢を、叶えるんです」
『夢、だと?』
「そう、夢です」

 男の顔に困惑が深くなる。男に必要なのは即物的な金と力だ。夢など一銭にもならないような物に興味はない。それはこの女も同じだと思っていた。男にとってクレアはただの技術屋で、それだけを追求している女だと認識していた。
 男はクレアという人物を全く理解していなかった。だから、目に映っている女が本当に自分が知っている女なのか疑わしく思った。

「まぁ、そういう事です。機会があったらまた会いましょう。会わない方がお互いのためだと思いますが」
『待っ………』

 男が何か言う前にクレアが通信を切る。それから身を翻すと、男との会話の事などあっさり忘れると隣の部屋に向かった。

「ふふ…………」

 その部屋の中央に魔法陣が展開され、その中央に眠ったままのクロノが宙に浮いたまま横たわっていた。そのクロノの髪をクレアは寝かしつけるように撫でる。

「ゆっくり休んで、育んでくださいね………」

 クレアの指が髪から頬を伝って首輪へと向かう。その首輪に埋め込まれた赤い宝石を転がすように指でなぞった。








 意識が朦朧とする。自分の身体がどこにあるかもわからない。何かに包まれる事でしか自分がここにいると実感できないほど、自分が見えない。
 まるで夢を見ているかのようだ。客観的に自分を見下ろし、夢を見ていると自覚できるように、今自分は眠っているのだろうと思った。
 おかしな話だ。眠っているというのに意識がある。意識があっては眠っているとは言えないだろう。そう思うと僅かばかり意識が明確になった。

 ─────?

 そこで、誰かが自分に呼びかけているように感じた。眠っているというのに、人の声など聞き取れるものなのだろうか。
 目を開く。回りを見渡すとどこだかもわからない空間にいる事がわかった。身体を動かすたび、水の中にいるように負荷が掛かった。

─────?

 そうして、また呼びかけるような声を聞いた。水を掻き分けるようにそちらに向かう。意識を向ければそこは光に照らされたようにわかりやすかった。
 足を止める。そこには思いもよらなかったものがいたからだ。
 自分の胸くらいまでの身長の少女がいた。手持ち無沙汰なのか、黒く長い髪をいじりながら僕を見上げていた。

 誰だ、君は?

 その少女を目にして意識を明確にしたクロノが尋ねる。この訳のわからない空間よりもこの少女のほうが疑問に思えたたからだ。

 誰?誰?………誰?─────あなた、だれ?

 疑問を疑問で返され、戸惑いつつもクロノは自分から名乗る事にした。

 僕は───クロノ。クロノ・ハラオウンだ。
 ─────クロノ。

 少女が今教えてもらった名を繰り返す。

 クロノ、クロノ、クロノ………、クロ、ノ、クロノッ。

 すると少女は与えられたおもちゃで遊ぶように何度もその名を呟いた。その様子に唖然として何も言えなかった。

 あなた、クロノ?クロノ?あなた、クロノ。

 ただ、無邪気に笑うその少女に悪い印象を抱く事は無かった。








 その指先に、確かな鼓動をクレアは感じ取る。

「さあ、育んで下さい。私の夢を───」

 クレアは笑う。とても無邪気で子供のような笑みで。
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