リリカルなのは SS

                    夜天の誓い
                   第四話 過去

 その家族は極めて普通の家族だった。両親がともに魔法に関わっていたが魔法が認知されているミッドチルダにおいて別段珍しいことではなかった。両親は一人だけの娘を愛していたし、娘も親を慕った。だからその家族はなんの変哲も無いささやかな幸せを持っていた普通の家族だった。
 それが壊れたのは母が亡くなった時からだった。魔法の実験の失敗によって、母はあっさりと命を落とした。その実験に立ち会いながら母を救えなかった父は嘆き悲しんだ。けれど彼には残された娘がいた。だから、悲しみに立ち止まるわけには行かなかった。

『これからは二人きりだ。頑張って一緒に生きていこう』

 そう言って娘を抱きしめた父の悲しくも優しい顔だった。なんの変哲も無くささやかな幸せは消え去った。それでもまだ父がいてくれた。だからまだ、その時の娘は小さくともまだ幸せと言えた。

 それが壊れたのは父が一冊の本を手に入れてからだった。

 その時のことは今でも覚えている。部屋で遊んでいると、音も立てず父が部屋に入ってきた。その手には一冊の本があった。それをパラパラと捲りながら父が聞いてきた。

『母さんに会いたいか?』

 母が死んで以来、父が母のことを語った事は無かった。驚きながらも何も考えずに娘は頷いた。今が嫌というわけではない。でも、あの時のささやかな幸せが戻ってくるというのならそれはとても素敵なことだと思った。

『そうかい』

 娘の言葉に父は膝を折って目線を娘に合わせた。ゆっくりと絵本を読むかのように娘に言い聞かせる。

『母さんが帰ってくるかもしれないんだ』

 父が娘の肩に手を置く。そうして笑いながら娘に語りかけた。

『だから、エレナ。それまで構って上げられないけど我慢しておくれ?』

 そう言った父の笑みはいつもと同じ優しい顔だったのに、エレナにはどこか違って見えた。







 そうしてエレナは父の言いつけ通り、部屋で大人しくしていた。部屋を出るのは食事や風呂に入る時くらいだ。時折、廊下から怒声が聞こえてきて怖い思いをしたりもしたが、父に言われた通り我慢した。
 その言いつけから幾日が経っただろうか、手を洗いに廊下を歩いているとすぐ近くの部屋から罵声が聞こえてきた。思わず、身を竦めるが止む事の無いこの罵声がなんなのかエレナは確かめたくなり、おそるおそるその部屋に近づいた。幸い、ドアは半開きになっていたので、隙間から窺うだけで中の様子を知ることが出来た。

『─────────』

 罵声の主は父だった。その前にいる見た事の無い四人組に向かって喚き散らしながら、周りにあるものを投げ飛ばしたり蹴り飛ばしたりしていた。

『─────────』

 四人組の組み合わせはちぐはぐだった。長い紫の髪を束ねた女性、金色の髪の女性、自分よりも少し年上の赤毛の女の子、長身で褐色の肌をした白い髪の男性。その四人は揃って表情を浮かべずに、叫ぶ父を眺めていた。

『─────────』

 ふと、その内の一人である紫の髪をした女性がこちらに顔を向けた。何の感情も感じられない、鋭い瞳に射抜かれ、エレナは飛び退るようにその場から駆け出した。今見たものから、今自分を見たものから逃げるように。
 あれは誰だ?あの部屋にいたのは誰だ?あれが父なのか?違う、父はあんな人ではなかった。じゃあどうしてあんな人になった?あの部屋にいた人たちのせいか?なら、あの人たちは何だ?
 部屋に飛び込んだエレナは鍵をかけて、ベッドに潜り込んで膝を抱えた。ガチガチと震えながら、ようやく自分が部屋に一人でいることの孤独に気が付いた。
 結局、その日エレナは眠りにつくことは出来なかった。







 それからエレナにとって長い時間が過ぎる。
 怒声は日に日に大きくなっていった。怒声のした部屋を覗くと中は泥棒でもこうはしないというくらいに荒れ放題になっていた。その度に、エレナを震わせ、身体を抱いた。時折、例の四人組の姿を見かけるとその姿が見えなくまるまで身を固め、姿が見えなくなるとその場にへたり込んだ。
 それでもエレナは待ち続けていた。父が我慢して欲しいと言っていた。その我慢が終わる時を。以前の父が戻ってくる時を。帰ってくるという母のことを。
 そうして待ち続けた時間の終わりは唐突にやってきた。
 大きな音を立てて部屋のドアが開かれた。驚いて入口を見ると父の姿があった。父の姿は変わり果てていた。頬は痩せこけ、目は血走り、髪も若干薄くなった気がする。荒い呼吸をして、汗を流しているその姿はどちらかと言えば大人しめだった父からは程遠かった。
 父は何も言わず、エレナの手を引いて部屋を出た。無理に引っ張られてとても痛かったが、走りながらも悪態をつく父に声をかける勇気はエレナにはなかった。
 やがて、とある一室に辿り着く。大きなモニターがある部屋でその明かりのみが薄暗い部屋を照らしていた。父は放るようにエレナの手を離すとモニターと連結しているパネルの前に立ち、カタカタと目にも止まらぬ速さでパネルの操作をする。

『駄目だ駄目だ!どうやっても逃げられない!!あとも少しだと言うのに!!』

 何度も響くエラー音に父は苛立って、両の拳でパネルを叩きつける。部屋の隅にいたエレナはその音に身を竦ませながらも父の背から目を逸らさなかった。ここで目を逸らしたら一緒に生きていきて行こうと誓い合った父を否定してしまう気がしたから。

『あともう少し!!守護騎士たちのリンカーコアも奪ったと言うのに!!あと僅かだけなのに!!』

 何度も何度もパネルを叩く。その音はエレナには姿も見えずに近づいてくる足音のように聞こえた。一際大きくパネルを叩いて、父の動きが止まる。しばらくして何か思いついたように顔を上げ、こちらに振り返った。
 振り返った父の顔は父ではなかった。正気の色は微塵もなく、狂気のみが宿っていた。獲物を狩る獣にも似た視線でこちらをねめつけ、モニターの光を背にエレナに歩み寄ってくる。

 その手には、一冊の本。

 ガタガタと身体が震える。もうエレナには父に対して恐怖しか抱けなかった。その恐怖がゆっくりと近づいてくる。エレナは逃げ出すことも出来ないほど、恐怖で身を縛られていた。
 父だった恐怖がエレナの前で膝を折る。優しく笑いかけるその表情だけが以前と変わらず、それがよりおぞましさを引き立てた。

『ごめんよ、エレナ。でも、我慢しておくれ』

 恐怖が腕を突き出し、エレナの胸を抉る。その胸から冷たさと異物感にエレナは、心を、感情を、身体を、感覚を、思考を、ありとあらゆる全てを凍りつかされた。パクパクと陸に打ち上げられた魚のように口を開き、大きく見開いた目が見たくもない光景を映し出し脳に伝える。

『一緒に、母さんに会いに行こう』

 その言葉を聞き取ると、エレナの意識は拒絶するように途絶えた。
 それがエレナの父だった人の最後の記憶だった。







 意識を取り戻したエレナが最初に見たのは天井だった。目を覚ましても意識を失ったままのように身動きもせず、天井を眺め続ける。
 恐怖に凍りつかされた身体と心は一切の活動を拒否していた。もう自分では何もする気が起きなかった。ただただ何もせず時間だけが過ぎる。
 どれだけそうしていたのか、見当もつかない。ただ、開かれたドアの音と近づいてくる足音だけがこの状況の変化を告げていた。それでもエレナは動かない。

『君、大丈夫か!?』

 その呼びかけに答えず、エレナは天井を遮るように視界に現れた人物の顔を見る。若い男だった。黒い髪がとても印象的だった。

『なんてことを。こんな子供のリンカーコアを抜いても完成には至らないとわかっていただろうに………』

 男はエレナを抱き上げた。暖めるように抱かれた感触がひどく心地よかった。

『怖かっただろう?もう大丈夫だ』

 その言葉と暖かな感触に、エレナは糸が切れたように再び意識を失った。






 次に目を覚まして飛び込んできたのはまたも天井だった。ただし、その天井は見知らぬ天井だった。

『気が付いたかい?』

 その声に促されるようにエレナは上体を起こす。顔を横に向けるとあの男が自分の眠っているベッドの横で椅子に腰掛けていた。

『意識はしっかりしているみたいだな。私が何を言っているかわかるかい?』

 コクコクと頷く。その様子に男は満足げに笑った。

『今は何もわからないだろうけど、ここは安全だから安心していい。だからいまはゆっくり休みといい』

 そう言って男は医療班の人間を呼ぼうと席を立つ。エレナは思わず口を開きかけた。その様に男が足を止める。
 何もわからない。言うべきことは見つからない。ただ、このまま男がいなくなるのが嫌だった。だから、相応しい言葉なのかもわからず、ただ感じたままにいった。

『あ、あり…が……と』

 何に対しての言葉なのか自分でもわからない。それでも男はその言葉に優しく笑ってくれた。
 それから数日、男は何度もエレナのもとにやってきてくれた。エレナもそれに男が来るのを楽しみにしていた。恐怖に凍りつかされた心と身体は次第に解けていった。表情もすこしづつ柔らかくなってきていると男は思った。

『君に身寄りはあるかい?』

 何度目かの会話の折、男がそう聞いてきた。エレナは身寄りの意味を尋ねてその意味を教えられると首を横に振った。自分には父と母しかいなかった。だから身寄りというものはないと言った。

『君はこのまま行くと、管理局の施設に預けられることになる』

 管理局というのは男が働いている場所だとエレナは教えられていた。だから、その場所に嫌な印象は受けなかったが、それでも見知らぬ場所に行くことは心細いと思った。その思いが顔に出たようで、男は苦笑しながら言った。

『どうだろう?君が嫌でなければしばらく私のところに来ないか?』

 エレナは驚いて顔を上げた。その言葉の意味を正確には理解していなかったが、それがこの先もこの人といられると言う事だというのはわかった。

『なんなら、そのまま私の子供になってくれてもいい。それがどう言うことがまだよくわからないかもしれないが、家には君より少し年下の子供がいる。少なくともいい友達にはなれると思うんだ』

 この人の家の子供になる。確かにそれがどういう事なのかはわからないが、この人と離れる事がなくなると言うのだけは確かだった。管理局の施設という見知らぬ場所よりずっと頼もしく思えた。
 頷くエレナに男は、満足げに頷いた。

『じゃあ、まずはしっかり元気になってこと。それから家族に紹介するよ』

 エレナと男の間だけで交わされた小さな約束。
 けれど、それが果たされることはなかった。








 その約束から一日も経たずにそれは起こった。
 早く元気になるようにと言われたエレナはその時も部屋で大人しくしていた。その部屋が突如、赤の蛍光灯に彩られた。その光に驚いて部屋を見回していると、ドアが開かれた。この部屋で起きてから数日間顔をあわせていた医務員だった。医務員はエレナの手を取ると何も言わず部屋から飛び出した。つい先日似たような出来事があったエレナは思わず、足を止めようとしたが子供の力では大人の力に抗うことは出来なかった。

『急いで!もう、時間がないんだ!!』

 その声はどこまでも切実だった。あの時のように狂った響きはなかったので、エレナは大人しく手を引かれて走った。
 辿り着いた場所では大勢の人が何隻もある大きな乗り物に乗り込んでいた。医務員に連れられたエレナも押し込まれるようにその一つに入っていく。ほとんどすし詰め状態の船内にエレナの小さな身体は押し潰されそうになった。
 やがて、大きな唸り声のような音とともに船内が揺れる。エレナはなんとなくこの乗り物が動いているのだと理解した。それから少しして前方にある大きなモニターの光景が黒い空間を映し出す。黒い空間には散りばめられた様な星の光と一隻の戦艦を映し出されていた。
 この乗り物はあの船の中に入っていたのか。この乗り物も大きいのに、それを入れていたあの船はどれだけ大きいのだろう。エレナが子供らしい感想を抱いていると、その船に向かって大きな閃光が奔った。閃光に貫かれた船は霧散して黒い空間に飲み込まれたかのようにその姿を消した。
 その光景に中にいた人達が一斉に嘆きの声を上げた。座り込む者もいれば、叫ぶ者もいた。共通していたのは皆が皆、涙を流しているという事だった。
 その中、エレナは皆の様子の意味がわからず、ただ姿の見えないあの人のことを考えていた。
 それから数時間後、船はどこかに着いたらしく、皆ゾロゾロと船の外に下りていった。その中で足を止めていたエレナは回りを見回しながら自分を連れてきた医務員に聞いた。

『ねえ、あの人は?』

 エレナの声に医務員はゆっくりと顔を向けた。その顔は悲しみに染まっていた。何故そんな顔をするのかわからないエレナはその様子を気にせずに聞いた。

『あの人は?私、あの人の子供になるんだ。あの人に連れて行って貰うんだ』

 その言葉に医務員は、悲しみをより一層深めた。流れる涙を止めようともせずに目線をエレナに合わせると、何も知らない少女にこう告げた。

『あの人はね、君を連れて行けなくなってしまったんだ』

 その日、時空管理局の艦船『エスティア』は護送中のロストロギア『闇の書』の暴走により、艦の制御を奪われやむなく味方艦隊の魔導砲『アンカンシェル』のより撃沈した。その時、最後まで船に残り船の状況を伝えた一人の提督が『エスティア』と運命を共にした。
 その人物の名はクライド・ハラオウン。十二年前の闇の書事件最後の死亡者であった。








 その後、エレナは管理局の施設に引き取られ育っていった。自分を引き取ってくれると言ってくれたあの人はいなくなってしまったのだからしょうがなかった。その事を聞いた医務員がその家族に伝えていなかったためでもある。最愛の夫と父を失った家族に、身寄りのない子供を押し付けるのは刻だと判断したからだ。
 エレナは九歳になると、士官学校に入学した。あの人と過ごしたのは数日間という短い時間を過ごしただけ。それでもあの人が働いていた管理局という場所に辿り着きたいと思ったからだ。そして出来れば、あの人のようになりたいと願った。
 エレナは同年代はおろか年上の仕官候補生と比べても才能が飛び抜けていた。二年もすると並の教官では彼女を指導するのが手に余るようになるほどだった。ただ、あまりに攻撃に特化しすぎており、何度も教官に苦言を言われたがエレナは一向に気にしなかった。敵は打倒すればいい。そのためには魔力を叩きつけるのが手っ取り早い。それで教官とも渡り合えているのだからなんの問題もない。エレナはそう思った。
 それが覆されたのはエレナが十一歳になったある日、低学年の仕官候補生との模擬戦が行われた時の事だ。エレナとしては技量の低い候補生の指導などしたくもなかったが、必修の課目だったので致し方なかった。
 エレナの相手をすることになったのは入学したばかりの士官候補生だった。黒い髪の背の低い少年が黒のバリアジャケットを身に纏い自分と向かい合っている。その手には体格に不釣合いな黒のストレージデバイス。名前は興味がなかったので聞かなかった。
 こんな子供を入局させるとは管理局も人手不足が深刻だ。まだ正式に配属もされていない職場にため息を漏らす。だが、それも模擬戦が始まると跡形もなく消え去った。
 模擬戦が始まると同時に少年は、高速でエレナに接近した。その速さに完全に意表を突かれたエレナはろくな反応も出来ず少年の見舞った回し蹴りをわき腹に受けた。
 鋭い痛みがエレナの身体を走り、それはそのまま怒りになった。反射的にデバイスを突き出し、近距離から射撃魔法を放つ。しかしその時すでに少年の身体はその場から消えていた。頭上から降り注ぐ射撃魔法。その鋭さと威力に戦慄を覚えながら、その場を離脱する。距離を取ると砲撃魔法を展開、向かい合った少年も同じように砲撃魔法を詠唱する。放たれた砲撃は二人の間でぶつかり合い、相殺しあった。自分の魔法が小さな少年に防がれた事にエレナは動揺を抑えることが出来なかった。
 戦いは終始、少年の優勢で進められた。技量自体はエレナのほうが上だったが、最初の攻防で完全にペースを崩したエレナは少年の攻め手を切り返すことが出来なかった。攻撃一辺倒の自分とは違い、細かな機動や無駄な動作を省くための防御など柔軟な戦術を駆使する少年を切り崩す術をエレナは持たなかった。
 そうして最後は設置されたバイントに絡め取られたところに射撃魔法を叩き込まれ、エレナは訓練室の床に倒れ伏すことになった。
 呆然と訓練室の天井を見上げる。ここ一年、自分より強い腕の経つ教官以外には負けたことはなかった。それは確かな自信となって自分を支えていた。それをまだ入局して間もない少年に砕かれたのだ。未だ負けたという事実が信じられないくらいショックだった。

『大丈夫ですか?』

 起き上がらないエレナに少年が声をかける。見上げた天井を遮るよう様に少年の顔が視界に現れる。その光景はどこかで見た光景だった。その顔は誰かに似ていた。

『師匠以外と模擬戦をしたのはほとんど初めてだったから、加減が効きませんでした。同等の戦いというのは初めてです』

 返事は返されなかったが、エレナに異常がないと判断した少年は医療班を呼ぼうと身を翻す。
 エレナは弾かれたように身を起こした。

『お前、名前はなんと言う!?』

 自分でも驚くくらい大声で叫んだ。喜びとも驚きとも取れる感情。自分は一体この少年に何を期待しているのだろうか。それもわからない。それほど衝動的にエレナは少年の名を尋ねていた。
 少年はその様子に軽く驚いたようだったが、それほど気にせずこう言った。

『クロノ・ハラオウン。今年士官学校に入学した者です』

 その呟いたのとさほど変わらない声で響いたその名前はエレナの心に深く刻み込まれた。








 それからエレナはクロノと親交を深めることになる。出会ったばかりだと言うのにクロノの友人だと公言して憚らないエイミィ・リミエッタは最初こそ煩わしかったが気を許すと中々愉快な人物だった。気が付けば無愛想なクロノとエレナのクッション役だった彼女と個人的に出かけたりするようにもなった。
 クロノの様子を見に士官学校にやってきた彼の母リンディ・ハラオウンとも顔を合わせた。その時、クロノとリンディの前で自分が二人の家族を奪った闇の書のマスターの娘であることを告白した。その事を隠して親交を深めていたことにエレナは引け目を感じていた。これで、クロノとの関係が終わっても致し方ない、そう思って深々と頭を下げた。
 どんな罵倒でも甘んじて受けよう。そう思ったエレナにかけられたのは。

『気にしなくていい。あなたに責任があるわけでもないし、もう終わった事です』

 微笑みながら言うリンディの優しい言葉だった。肩に置かれた手が感じたこともないくらい温かかった。その後ろではクロノが頷いていた。自分も母と同じ想いだと告げるように。その光景が次第に滲んでいった。
 久しく流していなかった涙だった。あふれ出た感情の対処がわからずエレナは戸惑いながら涙を流し続けた。そのエレナをリンディは抱きしめた。涙が堰を決壊するのを堪えるようにエレナは身を震わせながら、その抱擁を受け入れた。その温かさはいつかあの人に抱き上げられた時と同じだった。








 それから二年。その間、エレナは執務官試験を受けていたが不合格続きだった。適正試験ではあまり執務官向きとは言えなかったが、それでも現場で大きな権限を与えられる執務官はエレナが管理局で為したい事に最も適していた。
 そうして受け続けた執務官試験。ようやく合格を受けた時に自分より年下の少年も合格を果たしていた。二年という時間あったにも関わらず追いつかれた形になったエレナは合格の喜びを削がれる形になりなんとも複雑な顔をした。

『これからは同期だな』

 いつの間にか対等に口を利くようになった少年。ただ身長はそれほど伸びず、逆に伸びた自分との身長差は広がっていた。自分を見上げて話す少年に追いつかれた事にエレナは苦笑いを浮かべた。

『そうだな。そして目指す所は同じだ。どちらが先に辿り着けるか競争だなクロノ・ハラオウン』

 クロノが頷く。お互い配属先は決まっている。これから立つ場所は違うが目指す所は同じだった。それはこれから先、待ち受けるであろう困難と立ち向かう上で大きな支えになるだろう。
 そこにエイミィがやってきた。手には自前のカメラがあった。彼女もクロノと同じ配属先になるそうだ。その配属先はあのリンディ提督が指揮する八番艦アースラ。あの二人がいるなら、よほどのことがない限りクロノは大丈夫だろう。

『二人とも並んで並んでっ。記念に写真撮るからっ』

 返事も待たず二人の肩を掴んで横に並べる。出会った頃と変わらず押しの強い女である。その性格にクロノもエレナも救われたところがたくさんあった。彼女がいなければ、きっと今の自分達はなかっただろう。

『それじゃー撮るよー』

 笑顔笑顔と言われるが、無愛想な二人は笑うのが未だ苦手だった。それでも出来る限り笑った顔を作ったところでシャッターが切られる。現像された写真は配属先の艦に搭乗する前日に渡された。手渡された写真を見てエレナは信じた。
 あの時の風景がこの写真の中で変わらぬように、きっと自分たちも変わる事はないだろう。
 それから、クロノと会うのはお互いに忙しく年に数えるほどしかなかった。それでも彼の背が段々伸びていくこと以外は何も変わらないと思った。目指すべき場所も、互いの為そうとする事も。
 半年前、彼が闇の書のマスターとそのプログラムを弁護していると聞くまでは。









 エレナは写真を手に過去を振り返る。大切に保管された写真はほとんど色あせる事無くその形状を保っていた。
 僻地で任務を遂行していたエレナが再び姿を現した闇の書が引き起こした事件の事を聞いたのは全てが終わった後だった。闇の書が本来の姿である夜天の書となり消滅したこと、その遺産として闇の書のプログラムである守護騎士と十字剣の欠片が残されたこと、その守護騎士が保護観察を受け管理局入りをしたこと、そのマスターも捜査官として管理局したこと、そしてその弁護や手引きをした人間の中にクロノ・ハラオウンの名があることを。

「…………」

 その名を思い出すたび、思い浮かぶ光景がある。

『こんなはずじゃなかった、そんな悲しみをなくしたい』

 ある時、管理局入りをした理由を尋ねた時、彼の顔には悲痛とも言えるほどの想いを込めてそう言った。その言葉にエレナは感じ入るものがあった。

『それはお前の願いか』
『………そうかもしれない』

 母の死、豹変した父、自分を救ってくれた彼の父。そのどれもが思い返せばこんなはずではなかった。そう嘆きたくなるような事ばかりだった。それは彼も同じだっただろう。突如訪れた父親の死。それがどれだけの影響を彼に与えたか。クロノと出会ってからエレナはその端々を見てきた。

『ならば、私もそうするようにしよう』

 気が付けばそう言っていた。意表を突かれた顔をする彼に構わず宣言した。

『悲しみを無くす。それを私の誓いにする』

 彼の願い。その願いを自分の誓いにした。それは執務官として激務に挫けそうになったこの身を支え続けてきた。
 だと言うのに、彼はそれを破った。これ以上ない裏切りである。裏切った彼は自分の前に立ちはだかった。先は引いたが次こそは正面から命を懸けて戦うことになるだろう。そうなった時、自分は──────────────。

「隊長」

 その声にエレナは物思いに深けていた思考を引き戻した。振り返ると管理局の動きを探るよう命じたクレアが立っていた。ここに来たということは何かを掴んだのだろう。エレナは身を正して尋ねた。

「どうだ、局の動きは」
「どうやらようやく本腰を入れるつもりになったみたいですね。武装一個中隊が投入されるみたいです」
「一個中隊か………」

 かなりの戦力である。元々精鋭揃いの敵陣営の脇を固めるには十分な戦力だ。その増援によって敵の捜査網は格段に上がるだろう。既に数日が立っている上、何度もこのアジトに転移している。そろそろそのパターンを読まれてもおかしくない。もう後に引くことの出来ず、なんの後ろ盾もない自分達の拠点がばれるのは死活問題だった。
 どう考えても行える戦闘はあと一回。それ以上の戦闘は、更なる増援を増やすことになるかもしれない。機会を逃す分だけ自らの首を絞めることになる。そもそも先の戦いが最良の状況だったのだ。既に自分達は首に手をかけられている。だから次の戦闘でなんとしても八神はやてを仕留めなければならない。
 それはクレアも思っていたことなのだろう。エレナの表情からそれを読み取った彼女は押し黙るエレナの代わりの様に言った。

「隊長。状況はよくありません。フォックスとマキシムのカートリッジももって一回分。彼らの戦力が落ちればロッドもその能力を生かせません。私にいたっては先の襲撃でカートリッジは底をつきました」

 彼らのカートリッジシステムは専用特化したデバイスの能力をさらに引き伸ばすために通常よりも特殊な作りをしており、発注にも精製にも手間がかかった。管理局に怪しまれないにするためには最低限の内の最大限で集めるしかなく、総弾数はそれほど多くなかった。その内クレアのオフィサーのカートリッジが一番少なく、全員を転移させるために使った時点で底をついたのだ。
 フォックスとマキシムもその特化した性能ゆえになのはやフェイトと渡り合ったが実際の彼らの魔導師としてのランクはその身に降りかかった出来事ゆえにAにも満たない。カートリッジで魔力を底上げすることが拮抗しているのならばその補助がなければ勝てないことは明白だろう。
 ロッドに至っては、一撃でも攻撃を受ければ倒される事情を持っている。フォックスとマキシムの二人で敵の足止めをしてロッドが敵を打ち抜くのが『ナイツ』の基本フォーメーションだ。その足止め役が落とされればロッドに攻撃の目が向く。そうなれば、ロッドの撃墜も免れない。『ナイツ』とは一人でもかければ運命を共にする共同体なのである。その指揮を取るエレナ自身がそれをよくわかっていた。

「故に次の戦闘でなんとしても『私達』の復讐を果たさなければなりません。でなければ、その機会は永久に失われるでしょう」

 クレアに言われなくてもエレナはそれを理解している。だが、あの精鋭達からクレアのオフィサーの補助抜きで八神はやてを仕留めるのは不可能と思うほど困難だ。
 どうするべきか迷うエレナにクレアは導くように提案する。

「私に考えがあります。発言してもいいでしょうか?」
「なんだ。言ってみろ」
「はい。この際、八神はやてを狙うのはやめましょう」
「何………?」

 予想だにしない、自分達の行いを否定するような言葉にエレナは凄む。それを受けてクレアは苦笑しながら弁明する。

「いえ、『私達』の復讐を止めようという訳ではありません。ただ、現状で八神はやてを殺すのが困難だと言っています」
「ならば、どういうことだ?八神はやてを狙わず何を狙う?」
「彼女の親しい者を。彼女が家族と言い張るプログラムでも彼女を守ろうとする友人でもあなたを裏切った執務官でも」
「…………何?」

 その言葉のエレナはまだ理解できない。

「あなたがクロノ執務官の父親の話をした時の彼女を思い出してください。あれを見る限り、彼女自身を傷つけるより親しい人物が傷つけられるのを嫌うタイプみたいです。調査でもそのような印象を受けます」

 クレアはとても清々しい笑顔で、祝いの言葉を言うように言った。

「闇の書に関わったが故に、親しい者が奪われる。その苦しみを彼女にも与えるのです。大切なものを奪い続けた闇の書の主に相応しい罰だとは思いませんか?」

 その思いもしなかった提案にエレナは心が冷えるのを感じた。震えそうになる手を強く握ることで誤魔化した。今の今まで八神はやてが闇の書の罪を背負ったから彼女を罰しようとした。それが一番筋が通っている。だが、クレアは直接闇の書の罪に関わりのない者も巻き込めと言った。障害ならばどけるだけだったがそれを目標にして殺そうというのは勝手が違った。

「『私達』の復讐の一番の近道が彼女の殺害だったからこそ我々は彼女の命を狙った。しかし、それが困難になった今、次に最良の手段を取るしかありません。そうしなければ『私達』の復讐は果たせない」

 エレナに近づいたクレアが耳元で囁く。

「ご決断下さい、隊長。『私達』の復讐を導く方よ」








「遅れてすまなかった、これでも出来る限り急いだのだが」

 ハラオウン家のマンション。警戒態勢は解いていないものの戦闘態勢は解いた面々を前にクロノは詫びた。その面子の中には無限書庫から戻ってきたユーノが合流していたが、はやてとヴォルケンリッターの姿はなかった。

「ううん。クロノは悪くないよ。それよりごめんなさい。はやてを守りきれなくて………」

 敵の思惑通りに動いてしまい、はやての守備を疎かにしていまいその身を危険にさらしてしまった。もし、クロノが参戦しなかったら全てが終わっていたかもしれない。

「いや、しょうがないさ。調べてわかったがあの連中は管理局でも特に特殊な連中だ。こちらが思ってもみない手を駆使して当然だった」
「わかった、って敵の事で何かわかったのかい?」
「ああ、エレナと『ナイツ』と任務を共にした部隊の人間が詳しく教えてくれてね。三部隊ほどいたが印象が強かったらしく皆しっかりと記憶してくれていたよ」

 クロノが頷くとユーノが端末を操作する。全員の正面にモニターが浮かび上がりいくつかのデータを映し出した。

「データは消去されていたがフォックス・スターレンス、マキシム・アイオーン、ロッド・ブラムは十二年前の事件の時から管理局入りしていてね。そっちの方は足取りを追うのは容易かった」

 クロノの言葉に動かされるように名前を挙げた『ナイツ』の三名の顔がアップで表示される。その内の二人には覚えがあるなのはとフェイトはそれぞれ自分が戦った相手を凝視した。

「遊撃役のフォックス、その補助と壁をこなすマキシム、後方からの狙撃で敵を撃ち落すロッド。今言ったそれぞれの役目をこなすのが『ナイツ』の基本戦術だ。そしてこの中で一番に撃墜しなくてはならないのは」

 モニターに写った三人のうちの一人が他の二人を押し退けるようにさらにアップになる。その顔はなのはもフェイトも見たことがない男の顔だった。

「この男、ロッド・ブラムだ。彼を倒せば『ナイツ』が君達を撃墜できる可能性はなくなるに等しくなる」
「あの、クロノ」

 クロノの言葉を遮るようにフェイトが手を上げる。皆の視線が自分に集まるのを感じながら言う。

「なんだ、フェイト」
「直接戦ったから言うけど、あのフォックスって人も油断できないと思う。あの人、私より速かった。あの速さに反応できなかったらすぐにやられちゃうと思うし、攻撃を当てるのも大変だと思う」
「そうだね。とんでもなかったよ実際」

 文字通り、目にも止まらぬ速さでフェイトと戦いを繰り広げた男のことを思い出しアルフが苦い顔をする。フェイトの使い魔でありながら何も手出しできなかった自分に今でも腹が立つ。
 一方、発言こそしなかったがなのはもフェイトと同じように思っていた。マキシムと名乗った巨体の持ち主は自分の砲撃魔法を耐え切って見せた。おそらく、あの防御を突破するには自身が出せる最大威力を持ってかからないと不可能だと思う。それはフェイトでもヴィータでも変わらないと思う。
 皆の疑問を受け、クロノは言いづらそうに口淀んでから言った。

「……この三人だが、武装隊にいながら四年前にエレナ・エルリードの直属になるまで全く出動がなかった。何故だと思う?」
「え?」

 あれだけの手練が全く任務に出なかった?
 自分を追い詰めた敵の意外な事実にフェイトは純粋に驚いた。あれほどの能力なら人材が足りないといつも悲鳴を上げている管理局にとって大きな損失ではないだろうか。
 クロノは出来る限り、感情を込めず説明を続ける。判明した事実は極めて後味が悪い代物だった。

「それは彼らには魔導師が本来持って当然の能力を持っていなかったからだ。それでも武装隊に所属し続けた彼らはこう呼ばれていた」

 クロノが言葉を切る。そうして聞いた辛辣な彼らの評価を言った。

「欠陥魔導師と」









「これからの方針を伝える」

 エレナは全員を一室に集めると、まずはそう言った。集められた『ナイツ』の様子はいつもと変わらない。管理局を敵に回しているというのに揃いも揃って豪胆な連中だ。それを頼もしく思いながらエレナは最初に詫びた。

「まずは謝りたい。私の詰めの甘さで今一歩で目標を逃してしまった。すまない」
「あー、気にしなくていいぜ隊長。隊長の読みが甘いのはいつものことだし」

 軽い口調で皮肉とも取れることを言うフォックス。しかし、そこに皮肉る響きはない。彼は簡潔にいままでの経験から来る事実を言っただけだ。エレナも他の面子もそれをわかっているから咎めなかった。小さく笑ってからエレナは言葉を続ける。

「では気にせず続けよう。先の機会を逃した事により状況は芳しくない。向こうには武装隊の増援もあるとの情報がある。いたずらに時を過ごせばそれだけ機会を逸することになる」

 そこでエレナはクレアを見る。彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべるだけだった。それを見てからエレナは一度目を閉じ、再び開いてから言った。

「そこで我らは目標を八神はやてから変えることにする。今となっては奴の命を狙うのは困難だ。故に、八神はやてではなくその周りの人間の命を絶つことで八神はやてに闇の書の主となった事を後悔させる。闇の書は関わった者全てに不幸をもたらすとわからせるのだ」

 そして次にエレナが言った言葉に、フォックスは顔を顰め、マキシムは沈黙を深くし、ロッドは軽く眉を顰め、クレアは微笑んだ。

「狙うはクロノ・ハラオウン。『我ら』の復讐の引き金を引いた男だ」

 暗い決意を宿してエレナはそう言った。





 続く


inserted by FC2 system